生徒がいて視覚障害教師がいる

私立須磨学園高等学校教諭 後藤芳春

「今日は、松本さんが欠席よ。」生徒の声。「ありがとう。これ公簿やからな、まちごうて記入すると、担任の先生の責任になるんや。
 生徒は、いつでも目を貸してくれる。生徒の目が、私の教師生活を支えている。私の授業はまさに、生徒と二人三脚の共同製作なのだ。
私は、生来の弱視。細かい漢字などが見えないことがある。「おおい、ボランティア。」 すぐに助っ人参上、一件落着。ここでも、共同製作が展開。私の授業は、生徒が動いてこそ成立する。こうして円滑に展開するクラスは、生徒の質問が活発に行われ、成績も良好である。「災い転じて何とやら」。
着任当時は、私自身が視覚障害を絶対的なマイナス条件と考えていた。当時、本校は女子校時代。女生徒と言えば、おしゃべりが得意。新任教師は、だれでも授業不成立の洗礼をくぐるものだが私も同じ。特に、採用時に弱視であると明言したばかりに、1年間は試用期間とされた。少しでも失敗あれば解雇という条件。同僚からは、「なめられないで下さい」との批判。教卓をたたいたり、恫喝したりの悪循環。「なめられたら終わりや」。同僚のことばは、この繰り返しだった。
 そして、1979年12月。当時の校長から、「あなたは、生徒や同僚から気持ち悪いと言われている。視覚障害は、普通校では不適格だ。試用期間だから、私の発言に人権侵害はない」と解雇の示唆。さらに、「同僚があなたの障害を気持ち悪いと言っても、その人には人権があるから裁判など起こしてはならない」との「訓戒」も。そして校長と理事長の両者に詰め寄られて「教諭職から事務職への職種変更に同意する」旨の書類に押印させられてしまった。
こうして、解雇だけは免れたが、2年目は図書館の清掃、3年目と4年目は校外の除草と下水掃除が職務内容。私は、炎天下が非常に見えにくい。外傷の絶えない日々だった。同僚からは、「盲学校を卒業しなかったのは差別意識が強いから」とか、「あなたがいるから、人権教育ができない」などという誹謗中傷。中には「めくらがこの学校にいるなんて非常識だ」という決定版まであった。
私は、無為無策に過ごしていたわけではない。県立高校の採用試験を受けた。学科試験はいつも合格したが、面接試験で「現任校で教諭から事務職に身分変更されたのは、大きな失敗があったからですか」という質問があり、最終的には不合格になる。
しかし、着任時の校長が退職して新しい校長の時代になっていた。その校長や多くの人々の支援で、1983年4月、念願の教諭職復帰が実現。
同僚の一部は私の復帰に反対だったと聞く。図書館の規定に、「本は目から30cm離して読むこと」という条項が加わり、「あなたのような目をしていると、恥ずかしくて一日も勤められないはずだ」という、時計の針が100年前に逆回転したような「ジョーク」が飛んできた。しかし、私は同僚のために教壇に復帰したのではない。わかる授業、知的な楽しみのある授業の創造が急務である。
教科書の暗記、教材研究、発声法の工夫など、日々忙殺されることになった。ワープロやパソコンなど、文明の利器は、大いに味方してくれた。特に、着任当時に眼圧の上昇に苦しみながらガリ版で試験問題を製作した地獄から比較すると、筆舌に尽くしがたい技術革新である。「障害があるとなめられる」という「迷信」は、自分がありのままを生徒の前で表現すれば払拭された。まちがった意識に固執しているのは、私を追い出そうとした一部の同僚だけになった。
生徒との人間関係の構築、内容の充実した授業の工夫が、私に教壇を保証する基盤になる。卒業生からの相談も多くなった。電話もしばしばかかり、進路の相談や人間関係の悩みを打ち明ける卒業生も少なくない。
障害教師を教壇から追放することは、教育の否定である。生徒の人間としての可能性を否定する欺瞞行為である。
 私自身は、高校時代、緑内障で失明した政治経済の先生から授業を受けた。盲学校ではない。カトリック系の私学で自らの人格教育と進学率を誇る普通校である。授業は整然と行われ、非常に充実していた。私たち生徒は、その先生の生き方に大きな感動と尊敬を抱いたものだった。この体験に現在の私がイかに励まされているかを思うとき、障害を持つ教師が学校現場で果たす役割の大きさをいっそう深く確信するものである

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