これからも「人の中」で

                      兵庫県宝塚市立御殿山中学校
                      教諭  西川順子

   1. 学校という「現場」でこそ

 視覚障害者となってから8年が経ちました。「障害者」という言葉を聞いても、ぎくっとしなくなりました。近頃は、電車に乗っても、人目を気にして杖をたたんでカバンにしまったりすることもなくなりました。
視覚障害者が駅のホームから落ちたという話を聞くことがありますが、先日、それが全く人ごとではないことだと実感した出来事がありました。
朝、出勤途上、よく慣れた駅で、向かい側のホームに入った電車を自分の乗る電車と勘違いして、右足の先がホームから出たところで、はっと身を後ろに引いたのです。今もあの宙に浮いたような足先の感触は消えません。しかし、その次の朝も、何もなかったように、電車にのって職場に向かう自分を不思議だと思いました。失明当初は杖の先が人に当たるだけで、外出したくない気分になったものですが、外へ向かう自分の気持ちが、つきまとう危険に対する恐怖にうち勝ったと感じる出来事でした。

 職場に復帰して6年になります。ふり返って見ると、前半が、障害者としての社会生活に慣れる事に必死だった3年、後半が授業のための3年だったように思います。私は学校という「現場」で、障害者としての一歩が踏み出せた事を、とても幸せだったと感謝しています。
復職前1年間、点字、歩行、その他料理を作るなどの生活訓練を受けましたが、いくら訓練しても晴眼者のようにはいきません。訓練所でうまく料理ができても、家の台所では、塩がどこにあるのかという事からやり直しなのです。
歩行の訓練では、壁がある所は、壁に杖を沿わせて平行に歩けば安全だという話でした。しかし、本校の近くのトンネルの壁に沿って歩くと、その先には深い溝がありますし、駅前のコンビニの前の点字ブロックの上には、朝の8時前後には大きなトラックが止まる事などは、毎日そこを歩いてみて初めてわかる事なのです。
私にとっては、「慣れと工夫」というものが日常生活をよりスムーズにしてくれます。おかげで、職場への行き帰りや、校内の移動は不便を感じる事はなくなりました。

 職場の人達にかかる迷惑は、常に気持ちのどこかに重いものがあります。しかし、生徒が点字の教科書に触れて、「先生、この点は、何て言う字?」と尋ねたりする時、何にも代え難い現場のぬくもりを感じるのです。

   2. TTの良さを生徒に返すことを目標に

 後半の3年間は、工夫の3年間だったように思います。その年(2001年度)から授業をTT(Team Teaching=1クラスに2名の教師が入る方法)で行えるようになったおかげで、私の気持ちには、ゆとりができました。このゆとりほどありがたかったものはありません。

 この年から生徒の名前を覚えてしまうことに挑戦しました。
以前は、毎回、点字の名簿を作り、当てた生徒からその点字を爪の先でこすって消していました。しかし、どうしても授業のテンポが損なわれたり、また消していない点字の中からしか生徒を選べないので発問の難易度によって生徒を指名できず、不都合を感じていました。そこで、各クラスの生徒の名前を出席順に覚えられれば、どんなにやり易くなるだろうと考えました。
教科書のセクションごとの新出単語は10〜20個程度なので順番に覚えられますが、全員の生徒となると230名にも及ぶので、最初は不可能だと思っていました。単語は、自宅からの散歩道のあるいくつかのポイントに語を適応させて無理矢理、記憶するやり方で覚えます。同じようなやり方で、初めは1クラスを覚えてみました。
自宅をスタートとして、次に電気店、バス停、病院…というような、いわば双六のようなポイントに、青木、赤松、和泉という生徒の名前を対応させて行くのです。例えば、自宅の前に大きく茂った木を想像し、自宅と青木君を結びつけるのです。
そして、実際授業をやってみると、以前とは比べものにならないくらい、ゆったりとした気分で進められることに気がつきました。生徒達の声や、個性なども、そのゆとりのおかげで、徐々にわかってきたように思います。それから2クラス、3クラスと徐々に覚えていきました。

 その2001年度は新システムの初年で、もう1人の英語の先生がTTのサブとして授業に入ってくださったのです。思えば、この年度は、多くの点で大変勉強になった1年でした。
授業中の生徒の様子から授業の組み立てやテストの作成に至るまで、意見を聞かせてもらうことを私は望んでお願いしました。それまで毎日授業の準備ばかりに追われていて、その内容まで振り返ることができていなかったと痛感しました。
その年度はサブの先生にも、主になってもらう場面もあり、題材の背景や文化的な解説などをしてもらったりと分担を決めたりしました。これは授業にメリハリをつける意味でよかったと思います。

 TTという形だけはその前年度から変則的に行っており、その時は私の不自由な部分をカバーしてもらえるので、願ってもないと思っていました
しかしそのような気持ちは、一人ひとりをよりよく見ることができるTT本来の良さをだめにしていることがわかりました。せっかくのTTのよさを私がもらうのではなく生徒に返すことを目標にするべきだと、今は感じています。

 その次の年(2002年度)もいろいろな配慮のおかげで、TTで行うことができました。前年度と違っていることと言えば、サブの先生が英語の先生ではなかったことです
しかし、これは、また違った点で授業の活性化につながったと思います。生徒と同じ視線から、私の思いつかないような疑問を出してもらったりして、解説のよいアドバイスをもらったこともあります。子供達も、うち解けてくれば、サブの先生に「先生は、何の先生?」とか「先生は英語得意だった?」などと質問します。社会の先生がサブの場合などは、題材に出てくる土地について少し話してもらうだけで、生徒も「ふーん」と、私が言うよりも納得するのです。
しかし、教材の準備やノートのチェックをお願いすることについては、かなり気を使いました。単語カードを書いてもらったり、単語テストの採点などは、教科外の先生にそこまでお願いするのは大変気がひけました。またその時間をできるだけ負担なく確保するために、ALT(Assistant Language Teacher=外国人講師)との授業を計画し、私がそのALT(と授業をしている間に職員室でやってもらうように工夫したりしました。

   3.   少人数クラスとボランティアの方々の助けを借りて

 本年度(2003年度)は、私が新システムの加配になりました。クラスを半分に分けて、別室で授業を行っています。しかし本年度は、午前中はすべてボランティアの人たちに授業に入ってもらっており、午後は本校の先生方に助けてもらっています。
ボランティアの方々は、毎日メンバーが変わりますが、とてもよくしてくださいます。特に、カードや絵の準備を空き時間に手伝ってもらうことで、教材が豊富になりました。絵も私がそのイメージで鉛筆描きした上をマジックでなぞりながら修正してもらうと、自分の絵を生徒に見てもらうこともできます。
生徒は私の絵を「足が短すぎる」とか「ラケットよりボールが大きい」とかいいながら、見ています。
 そのうちに「先生、描いてあげようか?」と言ってくれる生徒が出てきます。
  「本当?嬉しいなぁ」
  「でも、私が描いたって、言わんといてね。」
  「わかった。約束する」といって、画用紙を渡します。
そうかと思うと、描いた絵にサインが入っている場合もあります。生徒の作品はどれも力と心のこもったものばかりであることは、私は見えずとも、授業で見せたときの生徒の反応からよくわかります。それらは、ずっと大切に取っておいて、年度を越えて使っていこうと思っています。

 教室にもボランティアの人たちに入ってもらっていますが、主に生徒の様子をみてもらったり、黒板にカードをはってもらったり、プリントを配ったりというものです。しかし前の方に座っている子供が気をきかせて、手伝ってくれる時もあり、かえってボランティアの人達に申し訳なかったというような時もあります。
また、生徒の様子も授業の後に必ず聞かせてもらい、気になる生徒については担任の先生に話したり、次の時間に気をつけるようにしています。Aくんがノートをとっていなかったとか、Bさんが何度も後ろを向いていたというような事は授業後に知らされることが多く、後から指導しにくいものです。子供達がボランティアを通して私が彼らの細かなだらしない面ばかり知ることは面白くないでしょうし、生徒とボランティアと私の三角形が壊れることが一番心配するところなのです。

 ボランティアの方々は、「何でもお手伝いします。」と言ってくださいますが、やはり生徒の成績にかかわる事など、お願いするべきではないこともたくさんあります。しかし、教材の準備については安心してお願いでき、また安心して使える教材ができあがります。

 今年は何と言っても少人数クラスというのが、今までと違っているところです。生徒の座席は固定し、出席順に座っているため、名前を覚えれば、その場所に行って、生徒の名前を呼んで、話しかけることができます。生徒はそこで、私が自分の名前を覚えていて、自分自身に話しかけていることを知ります。このおかげで、生徒との距離は随分狭まりました。
少人数なので、ノートをとる時間に単語カードを持ってひとりひとり席を回り、発音させたり、英語でQ&Aをする時間が取れます。このような時には、個人的にほめてやれますし、普段、発言しにくい子供の様子もよくわかります。そんな時、私が持っているカードに点字が打ってあるのを知り、「先生、ちょっと見せて。」と言って、触ってみる子供もいます。
また、名前をどうやって覚えているのかとか、他のクラスも覚えているかとたずねたりします。「○○さんは、何組でしょうか?」とクイズ形式でくることもあります。
英語以外の話題になることもありますが、この数分のコミュニケーションが私にとって個人的に生徒と触れられる貴重な時間だと感じています。特に、教室以外で声をかけてくれる子供については、ある程度知ることができますが、そうでない子供については、他の先生からの話やこのような授業中の会話からしか、知ることができないのです。ところが最も気になるのが、こういった目立たない子供であり、個人的に話す機会が持てると少し安心できるのです。

 書く学習は私にとって最も困難で、こればかりは人の目を借りざるを得ません。ボランティアの人の中には、生徒のノートを見て、間違いを指摘してくださったりする人もいますが、近頃、私自身が書くことの指導にもかかわりたいと思い、始めたのが、ワークシートの回収です。
回収する紙には、コメントを書くスペースを作っておき、後で、ボランティアの人やALT(外国人講師)の先生の目を借りて、チェックするようにしました。この欄には私が下手な字で、1〜2行のコメントを書いて返します。これも、生徒と個人的にかかわれる大切な手段となってきました。

   4.   盲学校への転勤希望

 本年度より、ボランティアに入ってもらったのは昨年度までのTTを校内でやりくりするのが限界だったためです。本当に昨年度までは、忙しい時間をさいて、先生方が私のために時間を作ってくださっていました。それは授業のためだけではなく、行事や事務的な仕事などどうしてもできない部分でも負担になってきます。
最初は遠足や転地学習にもできれば参加した方がよいと思い、そうしていましたが、返って足手まといになる事を痛感すると、そのたびに、これ以上続けていけないと思ったりもしました。できるだけ晴眼者の先生と同じようにと思えば思うほど追い込まれていくのです。自分が晴眼者であったなら視覚障害を持つ教師が同じ職場で働いても当然だと言える自信はありません。
そう思うと同時に頭の中をかすめるのが盲学校への転勤です。「なぜ、盲学校なのか」という説明はできませんが、そのような気持ちは大きくなったり小さくなったりしながら絶えず心のどこかにありました。それは、就職してまもなく視力が落ち始めてから今に至るまでずっとです。
それが頂点に達したのは、去年度末でした。来年度は各自の持ち時間も、ぐんと増え、本年度のような形がとれないとの校長の話を聞きました。盲学校への転勤の気持ちは頭の中でふくれ上がり、それをしっかりと決心に固めるために校長にその旨を話したのです。
しかし、その頃は管外の転勤希望調査が終わった後だったので、私の決心は少し先送りになりました。少なくとも来年度ここでやって行くための手だては自分で考えるしかない、これ以上、回りに迷惑をかけることはさけたいという気持ちでした。あれこれ考えた末、私が校長にボランティアを入れることを相談し、宝塚ボランティアセンターの係りの人に出向いてもらいました。そこで、校長を交えて相談し、見つけてもらったのが今のボランティアの方々でした。

 今から思うとこのような交渉には随分エネルギーが必要でした。来年度は必ず盲学校に希望を出そうという決心はだんだん強固になり、完全に固まっていったのはこの時期でした。部活が終わって帰宅する生徒が授業中には出さないような大声で、「さよなら」とか「先生気をつけてね。」と言いながら通り過ぎると、後ろ髪を引かれるような気持ちにもなりましたが、転勤の気持ちは、この夏休みまで変わりませんでした。

   5.    本当は普通校で・・・

 夏休みに盲学校に行ってみました。通勤時間は今の約2倍で、1時間40分ほどかかります。電車の乗り換えは少なくとも3回、路線を途中で変えないといけないことが最大の不便です。
学校は片側が海、片側が山という自然にはとても恵まれた環境にありましたが、私が何よりも驚いたのは、学校までの道で誰にもすれ違わなかった事でした。人がとても少ないのです。また、その遠さに一抹の不安を感じながらも「大丈夫、大丈夫」と言い聞かせながらしばらくは、通勤時間の計算ばかりしていました。もう1度違うルートで行ってみたり、路線を変えずにタクシーを使う方法を考えてみたりもしました。
それと同時になぜこれほどまでに、自分の気持ちが盲学校へかりたてられるのかということも考えましたが、思い当たるのは「同じ視力障害を持つ生徒と教師という共通点」、「少人数」というような勝手な理由づけしかできないのです。恥ずかしながら、そこで自分が何をするのかと問えば、答えは何一つ思い浮かばないのでした。

 夏休みがあけてまもなく、JVT(視覚障害教師の会)のM先生が近況を気遣って電話をくださいました。話しているうちに自分の置かれた状況について長い間誰にも話す機会がなかった事を実感しました。同じ障害を持ち、復職にも私以上に苦労された人がいた事を思い出して気持ちの角度が少しばかり変わったように感じました。
それとほぼ同時に同会のH先生からの電話がまた追い風になりました。しばらく会から離れているうちに、視覚障害教師は増え、また、その補助等の体制も様々であることを知りました。3年前、授業を見せて欲しいと言われて四国から来校された先生も、今は小学校に復職されて、算数専科として頑張っておられること。また、関東方面で、2名の新任が採用された事。そのような明るい話題の影で尽力された人が多数おられる事。しかし、明るい話題はほんの数例で、厳しい状況の中で、何とか頑張っておられる先生も少なくないという事。
8月に毎年行われるJVTの全国大会の後だったので、そこに参加された会員の方々の情報交換が活発に行われたことがよくわかりました。2泊3日のこの大会にもあまり参加したことのない私は自分の枠の中でしか悩めていなかった事を思い知らされたようでした。

私の今までの経過について会員の方達に知ってもらうため書いて欲しいとのM先生からの依頼を受けた事で、今までの自分を振り返るよい機会ができました。

 年度末になると、ずしっと気が重くなり、私以上に校内組織を検討される先生方が悩まれるのを想像するとまた一層後ろめたい気持ちになった事。また、毎年、配慮してもらった形態で授業を何とかスムーズに進めるために自分なりに努力したこと。様々な事を次々に思い出しました。その中で、ひとつ気がついたのは、自分自身は、少しずつではあるけれども、前へ進んでいるということ。そう感じるのは、自己満足でしょうか。

 私がM先生につい口をすべらせて、盲学校への転勤希望をうち明けた時、先生の声の調子がぐんと重くなったのを感じました。
何がきっかけだったかは思い出せません。そうしないほうがよいといわれたわけでもないのですが、話の流れに自然に押されるように、あれほど堅かった決心がくずれていきました。本当は、「普通校にいたい」という無意識の意識が、この2本の電話ではじけただけなのかもしれません。
それからは、もう一度心構えの土台を固める時間が必要でした。今までは、障害者である私は、なるべく回りの流れに任せて、浮いたり沈んだりしながら、上手に泳いでいくのが最良の社会生活だと思っていました。社会の端っこにかろうじてでも、しがみついていれば、それで十分だという考えでした。

   6.   過去の20年を今度は私が生かしていく番だと思って。

 2年ほど前に、道徳で、視覚障害の少年の教材が取り上げられ、当然の流れであるかのように、私が1年生全員の前で、話をすることになりました。いつも、学年の先生には世話になってばかりという気持ちもあり、快くお受けしました。
私の話した時間は20分くらいでしたが、話し終わった後の何とも言えない不完全燃焼が、今ではなぜだったかよくわかるのです。生徒はシンとしてしっかり私の方を見て、話を聞いてくれていたことはよくわかりました。しかし、このような内容の話をするには、あの頃の私は障害者として精神的に未熟すぎました。生徒は敏感に、淡々とした原稿通りの話を無味乾燥と感じたに違いありません。

 近頃は、障害者としての自分に関する話が、自然に子供達の前でできるようになってきました。
それは、時間や場所を設定したり、原稿を準備したりする必要は全くありません。授業の中であったり、廊下であったり、場所は限られていませんし、また内容も、話の流れや生徒の様子によって様々です。ただ、「今なら話せる」という絶好のタイミングを直感的に察知するだけなのです。
訓練中の話や、困ったことなど、重そうな内容でも、さらっと話せるチャンスはそうそうあるわけではありませんが、このような場面では、「話してよかった」という手ごたえが感じられるのです。

そんな話がきっかけになり、生徒はいろいろ興味深げに聞いてきます。
 「どんな訓練したん?」と生徒。
 「大阪駅周辺を歩く訓練したけど、誰かが声かけてくれるから訓練にならへんかったわ。  訓練所のグランドで、自転車にものったよ。」 
 「うそや、先生自転車のれるん?」と生徒。
 「道路は人や物が多すぎるから乗られへんだけで、何もない所やったらすごいスピード 出せるで…」と私。という具合です。

 近頃、教師になって間もない頃の事をよく思い出します。ゆくゆくは視覚障害者となることを知ったあの時期は、暗澹としていました。視野の外側から黒い雲が中央に刻一刻と迫ってくるのを感じながら、「いやいや、まだ大丈夫」と言い聞かせる日々でした。
そのせいにしてはいけませんが、当時の私の生徒に対する姿勢は、今思い出すと、穴があったら入りたいくらい傲慢でした。それは、自分は、端くれでも健常者で、しかも教師でなければならないという気負いが、一層拍車をかけたように思います。教師は生徒に与えてやるべきで、生徒から助けられるなどもってのほかだという考えでした。でも、それが崩れようとして、「これではいけない」と思いながらも、解決の糸口はこの眼の病にしっかりと結びつけられて決してほどけないことがわかる始末でした。

 それが今ではよくこんな話をします。
 「私は、みんなに英語を教えてるけど、もし、遠足に行って私と二人きりで道に迷った  ら、地図をみれるのはみんなしかいないんやで。その時は頼むで。」
 「タクシーで帰ったらええやん。」と生徒。
 「誰がタクシー止めるん?」と私。
 「そうか…。ぼくが止めたるから先生お金払ってな。」
  まぁ、出てくること、出てくること。口々に楽しそうに話す生徒を見て、私が楽しんでいます。

 3年ほど前に、教研のレポートとして、「これからが出発だ」というような気恥ずかしいタイトルをつけたものを書きました。2度と読むまいと思って処分してしまった原稿を、取っておいてくれていた人がいました。恐々、読み返して、この3年間の重みを感じています。
「ここで再び出発を」と晴れがましく言う自信はありません。しかし、私は人が好きで、人に助けられてここまでたどり着きました。そして、これからも人の中で過ごしたいのです。過去の20年を今度は私が生かしていく番だと思っています。

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