見守られ支えあう教師生活 

          栃木県宇都宮市立陽東中学校教諭(音楽担当) 南沢 創

 毎年8月、全国視覚障害教師の会(JVT)のメンバーが集い、研修会が行われる。
全国の多種多様の教育現場で勤務する視覚障害教員、元教員が一同に会し、日ごろ
抱えている問題点、その解決策について白熱した討論が3日間にわたって展開される。

 その中でいつも思うこと、それは私は視覚障害教師の中で最も恵まれた職場環境で
働くことができているということだ。

 私が栃木県教育委員会の採用試験に点字でチャレンジし、合格したのは5年前。

長野県出身の私はそれまで何度となく地元で採用試験にチャレンジしたが、合格する
ことはできなかった。

 その年、私は採用試験に何とかして合格したいという思いで、全国の地方自治体の
教育委員会に電話をかけた。自分の目の病気について説明し、受験して教師としての
適性が認められれば教壇に立てる可能性があるか尋ねた。

 栃木県教育委員会と三重県教育委員会がとても前向きな対応をして下さった。
中でも栃木県教育委員会で私の電話を受けた指導主事の先生の話されたことは、一生
私の胸に深く残るであろう。

 その先生はまず自分の名前を名乗り、次のようにゆっくり、はっきり話された。

「世の中には体の不自由な人、心身に病気を持っている人、体が
弱い人、お年寄り、子供、いろんな立場、状況の人々がいます。こう
した世の中で弱い立場の人たちに社会参加の機会が認められないのであれば、それは
弱肉強食の動物の社会と何ら変わりありませ
ん。人間だからこそ、いろんな状況、立場の人たちが手を携えて助け合って生きてい
ける社会を作ることができるのです。

翻って考えるに、学校は社会の縮図です。しかし、今の日本では障害を持った先生は
残念ながらほとんどいないのが実情です。子供達に実践的に助け合いや共生の大切さを
伝えていくことができる人材であれば、障害を持っているからこそ教壇に立つ大きな
意義があると思います。是非採用試験に挑戦してください。

私の今のお答えは栃木県教育委員会全体の見解として受け止めていただけたら幸い
です。」

 私はその年、生まれ故郷の長野県の採用試験の受験を断念し、栃木県教育委員会の
採用試験を受験、合格、そして私の受け入れ体制をどのように構築していこうかという
教育委員会と私の度重なる打ち合わせが行われたのである。

 そして、視覚障害教師を受け入れるにあたっての本当に先駆的な様々な配慮事項が
決定された。

 その一つに視覚障害教師と学校生活をともにし協力して授業を作り上げていく、専門
の職員の配置があった。

 私には採用時から1年交代で授業や学校生活をともにする専属の職員がついている。
初任の年は私に教壇経験がなく、私についてくださる職員と何をどのように進めたら
よいかの試行錯誤の日々であった。

 初年度の授業では、子供の様子や思いをうまく汲み取れず、一方的に大学の講義の
ような説明、指示を繰り返すことしかできなかった。結果、生徒たちは活動への意欲を
徐々になくしてしまい、学習内容の消化不良を起こす結果となった。

ざわざわとした教室、それに対し大声でそれを静止しようと努める私、そして終い
には生徒たちから
「目の見えない先生には教師なんてできないからやめちまえ!!」
 という強い声が上がり、本当に辛い日々を過ごす結果となった。

 そして教師生活2年目を迎えた。この年は、私に専属でついてくださった
先生との協力関係が少しずつ実を結び始めた1年となった。
(本文中、以後、2年目に私に専属でついてくださった職員をT先生とする)

 4月、私とT先生がまずやったことは、初任の1年目の反省から、視覚障害を持つ
教師に学校現場でできることは何か、それをしていく上で必要な補助にはどのような
ことが挙げられるかという洗い出しだった。

そして4月中旬の授業開始までに、1年目には考えられないような準備ができあが
った。

 T先生は私に、音楽の教科書やノート、資料集の細かい記述、写真や挿絵を丁寧に
説明した。さらに生徒たちにどのように参照場所を示し、内容を伝えていったらよい
か、その説明を共に考えた。

T先生が私に伝えた内容を基に、私が説明原稿を作り、時間を置いてT先生を前に
私が説明をする、そしてその説明で分かりづらい部分に修正を加えていった。

教科書やノート、資料集の説明を考えていくのみならず、レーザーディスクによる映像
資料の説明も、しっかりできるように準備が進められた。
これが私たちの教材研究であった。

 子供達をひとりひとり理解していく手立てとしては、エクセルであらかじめ作られ
ている生徒名簿を活用し、生徒が座る席順を考え、エクセルのデータで座席表を作った。

 そして授業が始まった。私は各クラスの生徒氏名を座席順に必死になって覚えた。
T先生は授業が終わると生徒一人一人の様子を事細かに教えてくれた。私はエクセルで
作られた座席表のデータの中に、子供達一人一人の様子を書き込んで行った。

 T先生は授業時に使用して生徒がまとめたワークシートを全員分、私に丁寧に読み
聞かせた。私はその情報もパソコンに入力した。

 それから私は朝、その日授業をするクラスのデータをパソコンから呼び出し、誰に
どんな言葉をかけるか考え、授業に臨むことができるようになった。

 音楽の授業を楽しみに音楽室に早く来る生徒、授業で覚えた歌を口ずさみながら教室
へ帰っていく生徒が少しずつ出て来た。そしてついには、その日の授業で私が使用する
掲示物、楽器類、レーザーディスクなどを授業前に音楽室に準備し、何がどこにあるか
私に伝える生徒も出て来た。

 こうして私は、生徒から1年目とは全く正反対の反応を得ることができたのである。

 T先生は常に私と生徒一人一人をどう関わらせるか、それを考えて試行錯誤を続けた。
目の見える人が独りでやってしまった方がはるかに迅速で楽だというような立場はと
らず、生徒と私を関わらせながら進め、それを後ろからサポートするというスタンスを
いつも持ち続けていた。

 T先生には妥協という言葉は存在しなかった。やらなければならないと心に決めた
ことは、それが終わるまで学校を後にすることはなかった。授業や子供達ひとりひとり
についての話し合いが夜の9時頃まで続くことがしばしばであった。

 こうしてT先生の支えを受け、授業以外でも充実した1年間を送ることができた。
社会体験学習(生徒一人一人が、興味を持っている職場に5日間出かけ、実際の仕事を
体験する行事)での受け入れ先との綿密な打ち合わせ、期間内の子供たちの活動状況の
見回り等もT先生と共に行なった。

 また、校外活動の企画、実施にも大きく関わることができた。この年、私が所属する
学年では、東京班別学習という行事が実施された。子供たちは4人ないし5人の
グループを作り、綿密な計画を立て、日帰りで東京に出かけた。T先生は子供たちの
立てた計画を、事後には活動のまとめを私に読み聞かせた。私はそれを元に深く生徒
と関わるきっかけを得た。

 T先生との連携は、部活指導にも及んだ。私は当時、合唱部の顧問をしていたのだ
が、練習時にはいつもT先生の姿があった。

T先生は、発声練習の際、一人一人の表情や、姿勢、口の形など、私が見えない部分
の指導をじっくりとして下さった。曲の練習の際も、私が指摘した場所のメロディーを
ピアノですぐに弾いてくださった。

 そして、宇都宮市が主催するジュニア芸術祭のコンクールで優秀賞を受賞、栃木県
主催の中央祭コンクール出場権を得た。そしてこの年、宇都宮市立陽東中学校合唱部
は、この中央祭りコンクールで金賞を受賞したのである。

 この他にも、T先生と私とのかかわりの中で、目に見えにくい成果が子供達の心身に
生まれつつあるという大きな手ごたえを感じた年であった。

 その年、T先生は教員採用試験に合格され、正規の先生として羽ばたいていった。
彼は最後の挨拶で涙ながらに
  「南沢先生は自分からは誰がどこにいるか分かりません。皆さんが声をかけて
関わらないと、南沢先生は皆さんに関わることが難しいのです。どうか南沢先生に
声をかけてください、みんなで南沢先生を支えてください、南沢先生をよろしく
お願いします」と言って旅立って行った。

 さまざまな人たちと手を携えて過ごしてきた今までの歩み、一つ一つのエピソードを
振り返ると、私自身、大変恵まれた環境に生きている幸せを痛感する。

 同時に強く助け合い、お互いを思いやりながら生きる姿を目の当たりにする子供たち
は、共生の大切さ、お互いを思いやりながら生きていくことの尊さを知らず知らずに
学んでいる。

 これからもさまざまな人たちと手を取り合い、共に困難に立ち向かい続ける中で、
21世紀を背負って立つ子供たち一人一人の中に、そして、自分自身の中に、思いやり
の心をはぐくんでいきたい。

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