発足当時を振り返って(1)
三宅勝

 早速始めさせていただきます。この会を立ち上げたのは、いまからちょうど31年前の5月3日で、期せずして今日と同じ日です。1981年のことでしたが、その当時のことを少しお話したいと思います。

 私が復職したのは1978年ですが、その当時については少し置いておき、復職をして何を感じたかというところからこの会が出来上がる話になるかと思いますので、その辺を少しお話したいと思います。

 復職をして何を考えたのかといいますと、最初の1年はとにかく無我夢中でした。当然、視覚障害者として教師をするのは初めてですから、新任教師と全く同じです。自分の新任当時のことを思い出しながら、既にいる目の見えている先生は全部先輩だという気持ちで接していきました。

 1年目は頼れるものはなく、とにかく生徒と一緒にやっていきました。何を基準にしたかというと、とにかく、自分の目が見えていた当時の授業の感覚をどうしたら呼び起こせるかということです。

 これだけはなんとか手がかりをつけようと1年間やってみましたら、何となく手触りというか、手ごたえを感じました。子どもの方からはっきりと自分の方に示してくれたんです。

 ぼくの方からこうやったら生徒がこう言うだろうとか、こうなるだろうとか、そんなことを考えてみても全く経験もないし、人に聞くといっても聞く相手もいないし、これはもう生徒にぶつかっていくしかないと思いました。

 ぶつけてみたら生徒の方がどんどん、どんどん、それに対応してくれたそんな1年間でした。これはなんとかやっていけるかもしれない。そんな気がしてきました。

 さて、全国で中途失明で現場に戻った教師は私が初めてだろうか。他にも視覚障害の先生方はいるはずだとおもうが、盲学校だったらおられるかもしれない。

 誰からも全然連絡はないし知り合いもいなかったもので、日本ライトハウスの方からそういう先生はおられませんかと聞いてもらいました。そうした時に、最初にさっと連絡が入ったのが天王寺高校で教鞭をとっておられた楠敏雄先生だったわけです。

 ああ、こんな先生がおられる。楠先生は私よりも先に教壇に立っておられた先輩だから、とにかく連絡を取ってみようと思っていたところに、いま私の隣に座っている後藤さんが尋ねてきました。

 この後藤芳春さんは私立の学園で採用された先生です。弱視で目がみえにくいため、生徒側が気持ち悪がっているという理由で、これは学園側が言っているだけで本当は違うのですが、教壇から外される処遇を受けていました。それで私のところに尋ねて来たのです。

 そういうことを聞いたとき、自分は復職できたけれども、また楠先生は私たちの先輩として教壇に立っておられるけれども、現実に後藤さんのように教壇から外されている人がいるではないかと思いました。きっと全国的にみた場合、私たちと同じように教壇に立てた人もいるかもしれないが、逆の人もいるのだろうとも思いました。

 自分だけが良いのではだめだと思い、楠先生の電話番号や学校名を聞きました。最初はじかに会ったのではなく、電話で楠先生の声を聞きました。

 その電話で楠先生とざっくばらんに現状の話をしたところ、お会いして話をしようではないかということになったのがそもそものこの会をつくり始める最初の手がかりだったと思います。

 そして楠先生とお会いしました。後藤さんも一緒にいてもらったと思います。その時に、教員になりたい人や、現実になった人、残念ながら辞めていかざるを得なかった人もいることを楠先生から聞きました。

 それなら関係者が集まって話をしようではないかということになり、集まったというのが第1回目の研修会ということになるでしょうか。

 その席上でわかったことで、現実の大阪の例があります。視覚障害者になったために、詳しいことがわからなかった例です。

 ご本人には知らされなかったし上司の方は言わなかった。うまい具合に3年間ずっと給料もちゃんと出るし、学校に来なくてもいいから家で養生していればいいと言われ、それを聞いていたところ、3年目になったらいや、この給料が最後であなたはもう退職なんだ。学校の方の就業規程でそうなっていると、初めて種を明かされた先生が来ておられましてどうにも憤慨しておられました。

 まさにペテンもペテンで、こうなったらこうなるんだと一言いってくれればいいのに、なにも言わないで都合のいいことばかり並べられて最後にこれでおしまいと言われ、その時にはもうどうにもならずに退職するしかなかったそうです。

 そういう先生もいましたし現実に教壇から外されている人や音声障害のために現場で非常に苦労されている人も来ていて現状を話してくれました。

 全国にはこういう先生方が5人や10人ではないだろうと考え、これを機会に全国の先生方に連絡を取っていこうじゃないかということになりました。

 そして私自身のところにも私が復職したというニュースを聞きつけて東京の方の2人の先生から相談がありました。

 1人は新宿の第2小学校の女性教師で、その先生も休職に入ったという話でした。

 それから、神奈川県横浜の社会科の先生でしたが、その方は寄ってたかってなだめすかされて退職を余儀なくされたという経験をしたという話でした。

 そういう話を総合したうえで、こういう会をつくろうと楠先生と話をしながらJVTの会をつくったというのがそもそもの会の発足当時の話です。

 広島の松田先生も会をつくる前に私のところにいらっしゃったし楠先生のところへもお尋ねになったそうですが、どうやったら私たちの立場が認められるかを模索していました。

 教壇に立つためには実際に、私たちが実践しなければいけないし、ただ口だけで就職をさせろ復職させろではだめだということです。

 勿論、復職させろということは言わなくてはいけませんが、同時に私はこんなことをやれるし、やらしてくれと言うことです。そうして生徒たちにアピールすると同時に、周りの教師にもそれを示していくことです。

 1年、2年する中で、自分自身が障害を持つ教師としてやっていけると判断をしたら、置いてくれと言うし、だめならしょうがないし、そのときに考えようではないかと決心しながらやってきたのです。これが結成当時の話です。


「30周年記念式典報告」に戻る

トップページにもどる