発足当時を振り返って(2)
松田祥男

 広島の松田です。私は1つの新聞記事に助けられていまここにいます。

 病気休職をしていたときに、急激に視力が落ちてこのままでは復職をしてもいいことにはならないだろうと思う気持ちがあり、復職するべきだろうか、退職するべきだろうかと悶々としていました。

 大阪にりぼん社という出版社があるのですが、そこが障害者問題情報誌として「そよ風のように街に出よう」という本を発刊するという新聞記事が目にとまったのです。

 そこで私はすぐ、りぼん社に電話を入れました。編集長の河野秀忠さんと話をしているうちに、大阪で全盲で教壇に立っている人を紹介しようということになりました。

 それが楠先生だったのです。すぐに私は大阪に飛びました。そうして楠先生の授業を見せてもらいました。点字で熱心にバリバリやっていらっしゃるのです。

 そのあと、兵庫県にも全盲の先生が教壇に立っていると聞き、そのとき三宅先生の名前が出ました。後日また三宅先生の授業を見せてもらいに行きました。授業を見せてもらったあと、当時の校長を交えて話をしているうちに、目が不自由でも教師はできるかなと思いつつ家に帰ったのです。

 家に帰ってみると、私自身は点字なんてやったことがないし、本当に現場に立てるのだろうかと思ってしばらく決断がつきませんでした。

 そうしているうちに楠先生から、広島に行くから駅まで出て来いという話があり、私は広島駅まで出て行きました。そこで楠先生から目が不自由なことを公表して現場に戻れというアドバイスをいただきました。

 まだ自信はなかったのですが、とりあえず戻ってみようかと思いました。年数でいえば1980年です。新聞記事を読んだのは1979年ですが、1980年の4月には思い切って現場へ復帰しました。「わしは目が悪うていままでどおりにはいかんかもしらんが、よろしく頼む」と公表して現場に立ちました。

 そうしたらうれしいことに、現場の何人かの人が「よう言うてくれた。むしろ黙って我慢しながらやってもらうより、はっきり言うてもらった方が手を貸しやすい。よう言うてくれた。一緒にやろう」と言ってくれたので一安心をして現場で頑張りました。

 しかし、更に視力が落ち、いつか全然わからないことになるかもしれないと思いながら、1年間が過ぎた頃、先ほども話に出た三宅先生から電話がありました。ちょっと大阪に出て来ないかということで、それが5月3日だったわけです。

 仲間がいるというのは非常に心強いと思いました。1人だったらつぶれてしまったと思います。しかし、同じ仲間が現場で頑張っている姿をみて、声をかけられて、よし、やってやろうと思ったのです。

 JVTに参加したおかげでいまの私があると喜んでいます。孤立していたらやはりろくなことは無いと思います。仲間がいるから私はここまで来られたと思います。感謝感謝です。JVTありがとう、です。


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