発足当時を振り返って(3)
後藤芳春

 私は、1979年、昭和54年に私立の学園、当時は女子校だったのですが、そこに社会科、国語科教員として採用されたのです。

 そのとき私は、思い切って正直に自分は弱視であると学園に言って入りました。それが良かったのかそうでなかったのか、1年間試用期間になりまして、それでも何とか授業をしていきました。

 なにせ年頃の女子高生ですから口が達者です。これはもう視力に関係なく女の子はお喋りが大好きなので、何とか静かにさせて授業をしなければならないというお喋りとの戦いもありました。

 それでも何とか授業をしていますと、同じ年の12月の中頃に、突然校長に呼ばれました。実は、来年から非常勤になって欲しいし、できれば辞めて欲しいと言われました。生徒の中に気持ちが悪いと言っている生徒がいて、ここは女子校だからそんな先生がいたら困るというわけです。

 そこでおかしいと思い、当時の理事長に聞くと、実は同僚の先生の中に、気持ちが悪いから辞めさせて欲しいと言いに来ている人がいるというのです。それを聞いて「なんや、なんじゃこりゃ…」と思ったのです。当時の理事長もいま生きていたのならこの間京都の京丹後市でギネスブックに入った木村次郎右衛門さんと同じ115歳になると思いますが、とにかく明治の方なのです。

 その理事長から昔は塙保己一のように目が見えなくても先生ができたけど、今は時代が違う。目が見えなくては教師は無理や。あかん、だめだと言われて次の年、2年目の1980年、昭和55年に図書館勤務になったのです。

 図書館で何をしていたかというと、毎日掃除をしろと言うのです。視覚障害者と掃除。私は汚れがよく確認できないためあまり掃除は得意ではないのですが、それをやれと言われました。それで冬になると暖房は石油ストーブでしたのでストーブから煤が飛んだ。どうしてくれるのだと言われました。

 1981年に、いよいよ国際障害者年に入った年、今度は草を抜け、草を抜いて下水掃除をやれ、生徒の見本となって作業教育の見本になれと言われました。

 朝から晩まで草抜きと下水掃除をやれと言われましたが、私はまぶしいところがだめであまり見えないのです。

 手探りでやるものですから、鎌でよく指を切ってしまいます。すると、それはやる気がないのだ、やる気があったら怪我なんかしないと言われてみんなの前に呼び出されて叱られる、そういう日々を1981年から82年、昭和56年から57年の2年間送りました。

 その間の1981年、昭和56年5月3日に、私の状況と同じように暗い雨の日でしたが、大阪で雨の中、会の仲間が集まったのです。

 三宅先生からお話があったように、不本意ながら教壇を追われた先生やら、あるいは、当時は校内暴力がものすごく問題になった時期でしたので、言語に障害を持った先生から本当に毎日が生徒たちとの戦いですという大変な話が出たりして、障害を持った先生方の厳しさ大変さを改めて実感しました。

 そのときが実は全国視覚障害教師の会のスタートの日だったと思っています。大阪の東成区、緑橋のあるマンションの一室でした。雨がザアザア降っていましたね。


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