発足当時を振り返って(4)
長井仁

 新潟から来ました長井でございます。視覚障害者になったというのか、厳密に言えば、私はそれ以前から視覚障害があったわけです。

 1981年に網膜剥離で手術をやりまして、それをきっかけに視力がほぼゼロになったのです。それ以前は見えていたのかというと、先ほど少しお話が出ていましたが、教室の一番後ろの生徒の顔が見えないのはだめという基準で言えば全く基準外だったと思います。

 非常に度の強いメガネをかけて0.1までやっと出るかどうか、そんな状態ですから生徒の顔などは教室の真ん中から後ろは誰が美人かわからないのです。

 そういう点では、悪いところが見えない分だけ仕事としては良かったのかなという気持ちもするのですが、そんな状態ですから自分が視覚障害者であるという意識があまりなかったわけです。いまでもあまりないのですが。

 しかし、視力がほとんどゼロですから歩くのももちろんだめですし目から入ってくる情報は全くだめという状態になったわけです。そこでいろいろ考えました。いくつか悩みもあったわけですが、その辺の悩みは三宅先生や松田先生などがお話になったことと全く同じです。

 それまでだいたい20年ぐらいの教師の経験がありました。勤めていたところは新潟県の加茂市という地方都市で、新潟のすぐ隣のような所にある小さな町の市立高校でした。そこに20年くらい勤めた後でそうなったわけです。

 いままでやってきた仕事を続けていく中で新しい方向がみえてくるのではないかと思い、とにかく復職をしようと思ったのですが全く手がかりが無いわけです。

 目が見えなくてもきちんと教えている人はいるのですと言ってもどこにどういう例があるのかと言われ、そういう具体例が出せないとなかなか説得ができませんでした。塙保己一だけではやはりだめでした。

 そうこうしている間に、新聞記事にぶち当たったのです。それは1982年でしたか、具体的に言えば、有本先生と先ほど名前が出ていた高田剛先生の2名が大阪で採用されたという新聞記事でした。

 早速その新聞社である朝日新聞へもう少し詳しい情報を教えて欲しいと手探りで書いた手紙を出したのです。すぐに折り返し向こうから電話がありました。新聞記者の仕事は行動が速いですね。そこでわかったのが有本、高田両先生の消息でした。

 そこから有本先生を通じ、三宅先生と話がつながっていってJVTにつながってきたということです。

 たしか私が最初に伺ったのが高槻で集会をしたときです。1982年だったと思うのですが、違うようでしたら後で教えていただきたいと思います。

 そんなことで初めて新潟から関西へ出て行き、ようやく他の地域の様子が少しわかったという状況です。それ以前は全くわからないのです。どこをどうつけば情報とつながりができるかそれすら見当がつきませんでした。

 おそらく途中で視覚障害になる人たちもそれなりにいたわけでしょうが、そういう人たちは大半がひっそりと退職していく状況だったのではないかと思っています。

 教育委員会や共済組合の日教済などを通じて何か情報はないか、目が悪ければ医者にかかるだろうから、そういう情報はないかなどと、いろいろ探してみましたがないのです。ないというか、ぶち当たらないのです。いまから考えればそういう情報を簡単に教えてくれるわけがないのでその辺が大変いいかげんだったというか、甘かったと思います。


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