発足当時を振り返って(5)
楠敏雄

 私自身は盲学校で、あんま、はり、きゅうの三療を勉強して視覚障害者は三療へつくのが一番幸せなのだと、それをすべきだと周りの教師たちから言われていました。

 それでもどうしても自分がやりたい英語の教師の道をあきらめきれなかったのです。どうせ教師をするならば、目の見える生徒たちに教えてみたいという夢をずっと持ち続けていたわけです。

 たまたま弱視である私の恩師が盲学校の校長になられ、その校長が私に初めての機会だから一度やってみないかと水を向け、教育委員会にも根回しをしてくれたのです。

 たまたま天王寺高校の定時制で視力が落ちてきた先生がいらっしゃいました。その人を盲学校で受け入れる代わりに楠を天王寺高校で講師として1回やらせてみてくれないかというバーターをされました。

 一方では府教委に根回しをして初めてのケースだからぜひ少しでもいいので支援をして欲しいということで、これも内々に2時間ずつ補助を付けてくれ、教材準備の協力をしてくれるよう配慮をしてもらったわけです。それで、天王寺高校で教壇に立つことができたのです。

 これはまさに全国では初めてのことでしたが例外ではだめだと感じました。これをどうしたら拡げていけるのかと思っていたときに三宅先生から連絡をいただきました。

 実は、自分も復職を考えていてライトハウスでリハビリを受けて復帰しようと思っているのでいろいろアドバイスをして欲しいという話があり一緒にお会いしました。

 そのときに後藤先生も来られ、たしか梅田の田園という喫茶店に3人が集まり賑やかな中で後藤先生のぼやきをだいぶ聞かされました。三人で1カ月に1回とか2カ月に1回とか集まり、それがJVTのもとになったと思います。

 緑橋のマンションで第1回目の集まりをしたときに辞めることを決断した先生が数人いたというのを聞かされ非常にショックを受けたのです。その先生も来られていて、だいぶ説得したのですが「いや、もういいのです。自分は限界です」と言われました。もちろん個人が頑張るのは当然だけれど、個人の努力や頑張りだけではどうしようもないと周りの支援が不可欠だと痛感しました。

 会をつくり高槻でやったのは、高槻の教職員組合がその頃非常に人権意識が高かったからです。高槻教組に後援をお願いしました。やはり、周りの教師が変わらないと本人がいくら頑張っても限界があるということで周りの教師からの報告もしてもらいました。

 箕面の教職員組合にも人権意識の高い先生がいらっしゃったので、1次試験に通った段階で、なんとか高田先生の受け入れを表明して欲しいと箕面に要請しました。もし2次試験に通ったらうちが受け入れるからと府教委にも根回しをしてもらいました。

 有本先生の場合には先ほどの私を推薦してくれた校長が白菊高校へ受け入れることを働きかけてくれたのです。支援者や環境づくりがないと視覚障害者が教壇に立つのは非常に難しいと思いました。そういう取り組みを積み重ねることが必要だと感じたわけです。


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